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伽藍の整備

予習復習いたしましょう。
この事の背景には何があるんでしょうか。


唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。

『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝(? - 815年)の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんじゃくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂は8世紀後半の宝亀年間(770 - 780年)の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものである。

伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛(かくじょう、1193?1249)によって復興された


金堂(国宝)
奈良時代の金堂建築としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、元来本堂として建てられたものではない)。寄棟造、単層で、屋根上左右に鴟尾(しび)が乗る(西側の鴟尾が当初のもので、東側は鎌倉時代のもの)。正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表わす)で、手前の7間×1間を吹き放ち(壁、建具等を設けず、開放とする)にすることがこの建物の特色である。吹き放ちとなった堂正面には8本の巨大な円柱が並び、この建物の見所となっている。建物は文永7年(1270年)と元禄6?7年(1693?1694年)に修理されており、屋根構造は近世風になっている(創建当時の屋根高は現状より2.8メートルほど低かった)。2005年、奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建造は同年以降ということになる。堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する。
講堂(国宝)
平城宮の 東朝集殿を移築・改造したもの。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、天平時代宮廷建築の唯一の遺構としてきわめて貴重である。堂内には本尊弥勒仏坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。1970年に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像を安置していた

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月28日 15:40に投稿されたエントリーのページです。

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