やぐらの中にお地蔵さん。って良く見かけますよね。
あれは何なのでしょか。
やぐらのような様式の墳墓がなぜ発生したかというのには、広く鎌倉幕府開府後の鎌倉の地理・人口状況が関与しているとされている。もともと中世期の上流階級(武士など)の埋葬方法は法華堂と呼ばれる堂を建て、そこに葬るという方式をとっていた。法華堂の中には自分の信仰する仏像や位牌などを納めていたようで、供養のための仏堂と墓を一緒にしたものと考えていいだろう。
よく知られている例では正治元年(1199年)に死去した源頼朝は現在の「頼朝の墓」(神奈川県鎌倉市西御門2丁目)とされている場所にあった頼朝の持仏堂が、そのまま法華堂、つまり頼朝の墓の堂になったとされている。ただし、この頼朝法華堂自体は、鎌倉幕府創設者の墓だけあって大寺院であったらしい。他の幕府の有力者たちもこのような法華堂様式で葬られた。
しかしながら、承久の乱以後、鎌倉が政治的に絶対の権力を持つようになると、経済都市としても変貌をとげた。このため、鎌倉の人口は急増、都市として平地の必要性が増えた。多くの武士たちが法華堂様式で葬られると平地が減ってしまうという事態になったと見られる。
この頃に前後して仁治3年(1242年)に九州豊後府中の御家人、大友頼泰が市街地への墓所の建設を禁じる法令を出している。大友氏は幕府の法令や施政を模倣していることから、これ以前に第3代執権北条泰時によって、幕府がこのような法令を出していたのではないかと言われている。市街地への墓所建設が禁止されたため、墓所が山中になったと考えられる。また、木造の法華堂が焼失の危険性があったのに対し、岩を削ったやぐらは燃えないので、その転換と改葬が行われたものだと考えられている。
やぐらでの埋葬形式は、室町時代に衰退してしまったらしい。その後は、倉庫となったり、新たに土葬するために遺体がいれられたりされることもあったことが分かっている。
ただし、以上のことは通説で、当時の鎌倉市中が人口増加によって、墓地が増える問題があったかどうかを示すことは、史料としても遺跡としても残っていない。実際には、民衆や武士たちの当時の墓のあり方がどうであったかは、今もよくわかっていないのだけに、やぐらが本当に平地の武士の墓の代用をしたものかは疑問が残る。鎌倉に本当に墓を必要とした人たちのみが、やぐらの被葬者であると考えねばならない。やぐら内部には副葬品がまずおかれず、被葬者がどういう者であったかを知るのはむづかしい。故郷の国々に菩提寺を持つ武士たちが、鎌倉に墓を必要としたかは疑わしいだけに、やぐらの被葬者は、ただ単に武士というよりも、さらに限られた階級、特に僧侶や仏師などがあげられるのではないかと考える見方もある。
なお、やぐらという名称は鎌倉地方における岩窟(イワクラ)などの訛であるとされる。江戸時代の史料には、すでに「窟」の字に「ヤグラ」というルビがふられている。以前の考え方では「矢倉」という漢字を当てはめて武器の保存庫などと考えることもあった。現在では、漢字を用いずに、「やぐら」または「ヤグラ」という名称を用いるのが、普通である。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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